陰と陽のこと

易のしくみについて話すにあたって、一番の大前提が陰と陽のことだと思うので、そこからにします。

そもそも、陰と陽というのは、よくある善と悪とか光と闇みたいな二元論と混同されがちですが、まったく別物じゃないかなと私は考えています。

でも実態として今も「陰=悪い」ってイメージは拭い去れてないです。それは、旧時代的な仕組み、それは家父長制であったり、戦争して領土を広げたり組織をつくって大きくするとかとにかく財産を増やすとか、そういうのが良しとされる価値観では「陽=いい 陰=わるい」という形にしたほうが都合がよかったというのもあるのでしょう。でも本来はそういうものではないはずで、また、そういうものではないという前提にそって易はできているように思います。

よく「光りあるところ闇もある」といいますが、「陽」と「陰」は、そういうのともまた違います。陰は陽に付随する副作用のようなものとは違って、そもそも、同じものの別位相というか、とても流動的なものとして考えられていて、陰が極まると陽に転じ、陽が極まると陰に転じ、常に、陰が陽を陽が陰を内包しているとされています。「太極」のマークはそれをあらわしたものです。また「易経」の英訳は「book of changes」ですが、まさにその止まることない陰と陽の変化変容のあり方を記したのが易経なのです。

本来は「陽」も「陰」も、どちらもすばらしいものです。実際にはそういうイメージじゃないことも多いんですが、本当は、どちらもすばらしいということを前提に易に触れたほうがいいと思います。

わかりやすい例でいえば、晴れた日(陽)と雨の日(陰)ならば、一般的に「いい天気」って言われるのは晴れた日だけど、雨が降らなければ農作物は実らず、飲む水にすら困ってしまうようなものです。「晴耕雨読」という言葉もありますが、陰の時には陰の時の使い方、陽の時には陽の時の使い方があります。その時の陽と陰のバランスによって起こる出来事もさまざまです。それを知り、賢く使っていきましょうというのがもともとの易のコンセプトです。

晴雨のように、男女、乾湿、暑寒、明暗、天地、さまざまな陽と陰がありますが、すべてどちらも等しくすばらしいものです。

しかし「陽=吉」「陰=凶」のような考え方でおみくじ的に易を扱ってしまうと、雨の日に雨だからといって憂鬱な気分のまま家に閉じこもっていなければいけないということになってしまいます。悪いことは起こらないかもしれませんが、人としてそれじゃ面白くないでしょう。

雨の日に新しい雨具をもって楽しくお出かけしてもよいのですし、傘がなくてもどうしても恋人に会いに行きたければ雨に濡れても会いに行く、それが人間らしさというものです。その上で、雨に濡れたらお風呂にでも入って温まって風邪ひかないようにするとか、誰かに傘を貸してもらうとか、いろいろ考えることがあります。

そして、雨でも快適にお買い物ができるようアーケードを作っちゃうのも人間です。易経が成立したときから進歩している部分もたくさんあるのですから、当時はだめだったことも今ならできるかもしれません。なので、本来の陰と陽の意味に立ち返って、自分なりに易を再解釈していくというのも実りが大きいものだと思います。